新座市の概要
新座市は、埼玉県の南西部に位置し、地域の半分が東京都に接する武蔵野の面影を残す数少ない都市です。市の中央部は武蔵野の面影を今も残す緑多い野火止台地で、そのほぼ中央に臨済宗の名刹平林寺があり、境内は首都圏には珍しい静寂に包まれた自然の宝庫となっています。この境内を流れる野火止用水は、江戸時代、松平信綱の命により完成し、長い間生活を支える重要な役目を担ってきました。
1960年代から人口の急増とともに県南西部の中堅都市として発展を遂げ、平成17年(2005)に市制35周年を迎えました。
現在は、都市計画道路整備や新座駅周辺土地区画整理事業などに注力。野火止用水・雑木林などの自然を保全し、市街地と有機的に結びつけることで、自然環境と都市環境が調和したまちを目指しています。
新座のあゆみ
新座市は、柳瀬川・黒目川の開けた沖積低地と、それにはさまれた野火止台地からなり、古くから居住の場のみならず、宿場や交通の要所として栄え、時代の流れとともに大きな発展をしてきました。
旧石器時代には、既に黒目川流域の市場坂遺跡に先人達の足跡が見え、市域には、旧石器時代から古墳時代にいたるまで、両河川流域を中心に100ヶ所余りの遺跡があります。
稲作農耕に代表される弥生時代には、両河川流域の沖積地が水田として拓地され、周辺の新開遺跡では複数の方形周溝墓が発掘されました。古墳時代から奈良・平安へと時代が進むにつれ、河川流域全体に居住空間が広がり、ムラへと拡大していきます。
その頃新座の周辺は、律令政治により先進文化をもつ新羅人の政治的移住が行なわれました。天平宝字2年(758)武蔵国に新羅郡が設置され、市域はその郡下に属しましたが、生産技術や生活文化の面で大きな影響を受けたものと考えられます。新羅郡はその後新倉郡、さらに新座郡と名称を変えます。
やがて、武蔵武士の台頭から片山郷の出身である片山氏が、鎌倉時代から南北朝時代にかけて黒目川流域を中心に活躍します。一方、普光明寺や氷川神社を中心とする柳瀬川流域の大和田郷一帯にも文化の華が開き始め、市域は、にわかに豊かな歴史的発展をはじめました。
近世に入ると、江戸近郊地という政治的位置から川越・高崎藩領を始めとする、片山七騎などが知行した旗本領や、天領、平林寺領が入り組んで支配しました。なかでも川越藩主松平伊豆守信綱による野火止台地の開発や、それに伴う野火止用水の開削は有名です。江戸時代には開発によってできた村などを含め、市域には15の村が成立しました。これらの村々は幕末の変動を経て明治を迎えます。
明治に入ると廃藩置県及び市町村制により、野寺村、中沢村、十二天村、下中沢村、下片山村、石神村、原ケ谷戸村、辻村、掘ノ内村、栗原村の10村が片山村と合併し、また野火止村、北野村、菅沢村、西掘村の4村が大和田町と合併しました。町村合併促進法により昭和30年3月、大和田町と片山村は合併し、古い地名の新座郡(にいくらごおり)から名をとり、新座町(にいざまち)となりました。
その後、都市化と共に人口が急増し、国勢調査人口では昭和30年の11,700人が、昭和45年には77,704人となりました。そして同年11月1日市制が施行され、首都圏の中堅都市へと発展を遂げています。
新座の名前の由来
新座市の地名の由来は、天平宝字2年(758)武蔵国に新羅郡が設置されたことに由来します。その頃の新座の周辺は、律令政治により、先進文化をもつ新羅国(朝鮮半島)の人々の政治的移動が行われていました。その後「新羅郡」は「新座郡」に改称されました。
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| 新座の歴史についてもっと詳しく知りたい人はこちら↓ |
歴史民俗資料館 |
| 住所: |
新座市片山1-21-25 [地図を見る] |
| 電話番号: |
048-481-0177 |
| 開館時間: |
9:00〜17:00(入館は16:30まで) |
| 休館日: |
祝日(文化の日を除く)、月曜日(祝日の場合は、その翌日)、年末年始(12月29日から1月3日)、資料整理日として月の末日 |
| 入館料: |
無料 |
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